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ジョン・ヴィンガ-ド著『カトリック教会における女性の叙階をめぐって』

ジョン・ワインガーズ著『女性はなぜ司祭になれないのか』

John Wijngaards, The Ordination of Women in the Catholic Church, Darton Longman Todd, London, 2001, 204pp.

 著者はオランダ出身、教皇庁立グレゴリアン大学で神学、聖書学を学び、その後インドの聖ヨハネ神学院で教えていたとき、聖職についての全国セミナーの準備として「女性の聖職」についての研究を依頼されたのを機にこのテーマに深くかかわるようになり、爾来、彼にとりこれは良心にかかわる真理究明の問題となった。1976年、ミルヒル宣教会の副総長に選ばれロンドンへ。その後、1982年以来ロンドンの国際センター、ハウストップの責任者として教会の緊急課題について執筆活動、講演に力を注ぎ、19995月に『カトリック女性のインターネット図書館』(www. womenpriests. org)を開き、「なぜ女性司祭なのか」に関して聖書、伝承、神学の各分野からこの伝統的議論のために豊富な資料を提供し、特に第二ヴァティカン公会議後の教導職の主張に対して反論を試みる。

 本書は全体が四部から構成されている。第一部では、教理省が教皇庁聖書委員会の助言を無視して、1974年の『インテル・インスグニオーレスInter Insigniores, 役務的司祭職を女性に認めるかどうかという質問に関する宣言)で女性司祭をめぐる古くからの議論に基本的な反対を再度宣言したことに対し、ワインガーズは「キリストは女性司祭を排除したのか」と論じる。彼はこれが神の聖旨ではなく、教会が異教のローマ法を取り込んでしまった結果であることを、カッコウが他の鳥の巣に自分の卵を産み落とし育てさせるのになぞらえて説明する。教父たちに多大な影響を及ぼしたアリストテレスに代表されるギリシア哲学を教会は取り込んで暖め、孵化させ、教会の中に偽りの伝承をもたらした。それがトマス・アクイナスに引き継がれて、多くの神学者、教皇に多大な影響を及ぼした。ヨハネ・パウロ二世と教理省は遂にこれを信仰の領域の問題とし、賛同しない者に厳しい対処を辞さない。しかし、著者は1990年の『ドヌム・ベリターティス』(Donum Veritatis, 神学者の教会における召命に関する指示)にあるように、制度の中でも異議のためのスペースがあること、また、『現代世界憲章』62項、広報機関に関する教令でもこれが言及されていることを喚起して、第二部で反論と主張を展開する。

 ワインガーズは、女性の叙階禁止が福音の中でイエスが示した優先価値と行動に矛盾する神学的理由を提示すると同時に、カトリック共同体が福音の理解を深め、自主性を強めている現在、もはや無視できない問題であることについていくつかの証言を提示する。西欧諸国でのカトリック女性司祭の賛成率も最近の統計による紹介を怠らない(スペイン74%、ドイツ71%、ポルトガル71%、アイルランド67%、イタリア58%)。そして、教会の歴史の中でどのようにこの矛盾が正当化されてきたのか、いかに女性への偏見と差別が育てられたかをラテン教父とギリシア教父を比較しながら論じる。前者はプラトンの影響も受けて、テルトリアヌス、アウグスティヌス、ヒエロニムスなど、女性が「懲罰の身分」をエバに負うとし、また、メンスに対する嫌悪感が強く、その期間には聖体拝領も許さなかった。他方、後者はイレネウスに見られるようにエバよりアダムのほうにより大きな責任があったと考えられていた。また、110年に没した聖イグナチオのように救いはもう一人の女、マリアを通して可能になったとし、七世紀にはマリアを司祭として崇める賛美歌なども見られ、南イタリアでは女性が実際に司祭に叙階された形跡もある。実際には東西双方とも初代教会には秘跡としての叙階を受けた女性助祭が存在していた。しかし、西側では教会会議を開くたびに制限規定が加えられ、ついに十二世紀グラティアヌスが反女性慣例を教会法に入れ、制度化されて今日に至ったのである。

 第三部では女性の叙階を拒む伝統的論拠を求めて、初期の議論の起源を追い、中世の神学者と教会法学者16名をリストアップして、「女性の劣等な身分」と「教会による女性の排除」について彼らの立場を分類する。そして彼らに見られる五つの基本的論拠を挙げる。すなわち(1)女は神の似姿として造られていない、男に従属する(創1:26-272:21-22、一コリ1:7-9)。(2)女は教会内で教えてはならない(一テモ2:11-15、一コリ4:32-35)。(3)女はまだエバの罪の重荷を背負う(創3:13-19)。(4) キリストは十二使徒の中に女を入れなかった(マコ3:13-19)。(5) 女は完全な人間ではないのでキリストを代表できない、などである。さらに、最近のヴァティカン文書はこれらの論拠に対しどのような立場をとっているかを明示する。そして、9章から13章までを割いて、これら五点の基本的論拠を広範な資料、聖書、神学大全から教会会議文書、教皇書簡、教理省文書、現代の神学、聖書学研究を駆使して詳細な解明と反論を試みる。

 14章では、ローマが女性を叙階させないために以前には知られていなかった議論、キリストと教会の「花むこ」と「花よめ」という象徴的関係を持ち出してきていることを指摘する。これはローマ自身が認めるようにシンボリズムによる架空の議論で、司祭職から女性を締め出すための理由に使われているのだと著者は言う。すなわち、神は男と女に異なる尊厳と使命を与えた。神が契約を結んだとき、神が「花むこ」でイスラエルは「花よめ」であったように、キリストは「花むこ」で教会は彼の「花よめ」であって、このシンボリズムは非常に重要なので、神の御子は男として人間にならねばならず、ローマはイエスがミサ聖祭で男性のみによって代表されるべきだと『インテル・インスグニオーレス』(Inter Insigniores, 29-30)、『使徒的書簡 女性の尊厳と使命』(1991年、中央協議会、Mulieris Dignitatem, 1988, 25-26)などで主張する。

 著者はここで、1976年から教皇の神学委員会のメンバーで、ヨハネ・パウロ二世のお気に入りの神学者であったハンス・ウルス・フォン・バルタザール(Hans Urs von Balthasar)が論述した「司祭的奉仕職と秘跡は種を伝える手段である。それは男性の領域に属し、花よめに女性としての機能を呼び起こすことを目的とする。彼の挙げるミサは一人の男が自分の体の限界のある器官で一瞬の間に達成できるような彼のすべての肉を豊かに注ぐ終わりのない行為以外の何であろう」に対するティナ・ビーティ(Tina Beattie)のコメントを紹介している。すなわち、「男性の祭司職を絶対不可欠とすることにより、ミサの象徴的な豊かさを奪ってしまう……『限界のある器官』を欠く女性の体はミサにおけるキリストを代表することはできない。究極的には、これは女性が同性愛の形而上学的感性における傍観者となった。なぜなら、人間と神との婚姻において、男性の体は花むこの男であり、かつ花よめの女でもあるからだ。これは男性である神と女性である被造物との婚姻であり、男性であるキリストと女性である教会との婚姻である。こうしてカトリック神学は男根中心的となった」のだと。ワインガーズはローマが使う「花むこ、花よめ」のシンボリズムは伝統的な議論を新しい装いで行うことで、これはアクイナスが「シンボリズムの基礎を置く神学は何も教示しない」と言ったことだと指摘する。

 次に著者は「奴隷制」や「非キリスト者の救い」を例に挙げ、それが聖書のテキストの不当な引用であり、実際にはキリストからの伝承ではなかったことを明らかにして、女性の叙階を認めないとする伝承についても丁寧に反論する。聖書解釈上の不十分な知識、生物学の無知、入手困難な信頼性の高い歴史的データなどの不足、社会的文化的性差別などが要因で、キプリアヌスがいみじくも言った「真理のない慣習は過去の誤りにすぎない」のだと論破する。そして、本物の伝承とはイエス・キリストが使徒たちの創立した若い教会で信仰を世紀を通して私たちに伝えることであり、その内容は徐々に発見され、より明確になる生きた慣習のことである。ここで写本の儀式書から初代教会の助祭叙階式での典礼文を男女別に比較するが、開祭の儀、按手、取り次ぎの祈り、任命ともほとんど同じである。次に、伝統的神学者が行った女性助祭の叙階の秘跡性に関する反論を、ニカイア公会議、オランジュ教会会議、カルケドン公会議などでの議論、結論より解明する。

 ヨハネ・パウロ二世と教理省はこの女性叙階の問題を普遍的教導職によって不謬的に決定されたとするが、そのためには第二ヴァティカン公会議が教えるようにいくつかの条件が必要である。すなわち、司教たちは司教団として行動すること、自分の熟慮した意見を自由に表現すること、司教たちは全教会の信仰への奉仕として「信仰のセンス」に耳を傾けること、教義は信仰の事柄に関係した内容について関与するはずであり、司教たちは「決定的」なものとしてそれを望むことなどである。ケンブリッジ大学のニコラス・ラッシュ(Nicolas Lash)教授は「カトリック精神の中で問題が熟すのを妨げるために無神経な手段として不謬性の教義、公の教義の中でカトリックの信頼の理由と特質を示すような教義を用いようとすることは権力の乱用であり、教皇が維持しようとする未来の権力にさらに害を与えるような最も深刻な結果をもたらすであろう」と1995122日号のタブレット誌の“On Not Inventing Doctrine”で述べている。

 最後にワインガーズは絶大な霊的権威が聖霊の息吹を止めてしまう危険を憂慮しながら、教会内のいくつかの解決すべき問題の一つとして教会の改革に向けて、教会内の責任ある人たちが声を上げることの必要性を訴えている。

 神学者、聖書学者、歴史家でもある著者は男性ではあるが、「女性叙階」に関して真摯に、しかも徹底的に広範囲の資料を駆使して、ヴァティカンの態度の背後にある歴史的根拠に伝統的な議論を検討しながら疑問を投げかける。彼はすでに1977年にDid Christ Rule Out Women Priests? (McCrimmons, Great Wakering)を、また2002年にThe Women Deacons of the Early Church (Canterbury Press, Norwich)を出版しているが、本書のような試みは始めてであろう。すでにフランス語、イタリア語、オランダ語、スペイン語に訳されて、高い評価を受けている。誰が読んでもわかりやすく、「女性叙階」の議論が何であるかを理解することができるであろう。日本語訳は『女性はなぜ司祭になれないのか――カトリック教会における女性の人権』と題して、20055月、明石書店から出版された。

カトリック研究 2005年 74173-178頁  書評から

伊従 直子

性は叙階され得るし、 される筈の七つの理由

エクレ-シアにおける女性の位置

固い殻の中には一体何があるのか

聖書からの論争

伝統からの議論

神学的論争

教導職

声を挙げる義務

これは一体全体何なのか

声を挙げる義務

これは一体全体何なのか

固い殻の中には一体何があるのか

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1 .キリストにおける一つの祭司職

2.司式する力を受けて

3.文化的偏見

4.女性は嘗て助祭であった

5.女性が叙階され得ることは教会の潜在的な伝統の中にある

6.他のキリスト教会は女性司祭を受け入れている

7.実は女性もまた司祭になるべく招かれている

何時も問われる質問を参照せよ


ジョン・ワインガーズ著『女性はなぜ司祭になれないのか』

John Wijngaards, The Ordination of Women in the Catholic Church, Darton Longman Todd, London, 2001, 204pp.

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